第1節 神宮の起源の遠因 と 皇室の東西対決
伊勢神宮の起源にまつわる伏線を知れば明確に理解できそうです。
事の始まりは歴史の教科書でもお馴染み645年の大化の改新から始まります。
ただのクーデターと目されたり実際はなかったなど、ことの真相は今でも論議
の的ですが、その事件の伏線がもとで後に勃発するのが皇族同士の東西対決です。
これが世に言う672年の壬申の乱ですね。
天智天皇の皇太子🆚大海人皇子の対立構図。
勝者の大海人皇子(天武天皇)は一旦吉野から逃れ、伊勢に入った時に国司をはじめ多くの国人の助けを受けるのですが、これが勝利の決め手になった。
そもそも天智天皇も天武天皇も腹ちがいの皇子であり、双方を担いだ陣立てを簡略にいうと、天智側が物部(この頃の物部氏は蘇我氏と仏教伝来に対立し敗北するがその後も存続している)と中臣、天武側が蘇我と※阿波忌部(よく混同されますが近畿の中央忌部ではない。また、推古帝の摂政だった聖徳太子の出自で見れば物部も蘇我も元来は姻戚関係。)の構図になる。
この内紛が645年の蘇我入鹿殺害のクーデター(乙巳の変)のリベンジとなった。
つまり大海人皇子は殺害された蘇我氏と深い繋がりがある。
※忌部氏とは初期の大和朝廷時代に中臣氏と共に宮廷祭祀を担った中央豪族である。中臣氏が藤原氏として中央政権で台頭する頃には再興を図り拠点を阿波(現在の徳島県)に移し(というより本拠点に戻る)阿波忌部氏として地方豪族になる。その後の全国進出における拠点の一つが近畿地方の中央忌部氏であり、その他も同じく各地区に開拓進出した忌部氏も、元来出自が阿波の天日鷲を祖神とする阿波忌部氏となる。古墳時代には蘇我氏に追従し神事における祭具でも繁栄し、中央の朝廷祭祀として中臣以上に君臨した。