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伊勢神宮と皇室1000年の空白

第2節 大海人皇子に味方した氏族と神官

国司と国人の助けを得た大海人皇子だが、これらはほとんどが海人族で尾張氏(天孫族である天火明命の末裔)などの現在では三重をはじめとする尾張一ノ宮の豪族から、京都丹後一ノ宮までに至る。

壬申の乱については万葉集の柿本人麿呂の歌の中にもある。

行く鳥の  争うはしに  度会の斎宮ゆ

神風に  伊吹きまどはし

これは伊勢の神風で大海人皇子の勝利が決まったとことをうたった句だが、大海人皇子はお礼に国人の信仰厚い度会(今の三重県明和辺り)の狭く簡素な斎宮を、五十鈴川のほとりに立派な社殿を建立し移すこととした。

しかし神宮は大海人皇子(天武天皇)生存中は完成せず、持統天皇が即位しての四年後に完成し、その時に伊勢皇大神宮の第一回遷宮を行った。その頃から伊勢神宮は天武天皇の私的皇祖祭祀場と位置付けされことになる。

しかし予想通りと言うか持統六年の皇室の伊勢詣に対し強い反対が起こりはじめる。

ここから三度宮中での大逆転が始まっていく。

そもそも持統天皇とは壬申の乱で戦った天智天皇の皇妃であり、天武天皇の皇后ではあるがつなぎ役としての女系天皇であり、側近の実力者が藤原不比等(中臣氏の次男)が政を行い、つまり中身は天智天皇側に逆戻りした形になっている。


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