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伊勢神宮と皇室1000年の空白

 第3節 壬申の乱の両陣営とその後の南北

 とにかくそれ以降明治まで約千年間は天武側でない、あるいは途中の南北朝時代から南北合一以降、事実上の江戸までの北朝時代は皇室の伊勢詣は行われなかった。

 つまり、少し強引だが天智天皇側=後に北朝、天武天皇=後に南朝と区分すると整理がつく。

 但し、南北朝の起こりそのものは皇族の派閥に端を発し、後醍醐天皇の建武の新政による武家との対立から始まるが。

 本来は天武天皇の勅命で編纂された記紀、つまり古事記と日本書紀を藤原不比等たちが国史として編纂に携り、今日の日本の國體が形成されいく。

 古今東西歴史は常に勝者によって創作されるフィクション。

 それは何も国内だけの話ではない。

 藤原氏の時代が後の荘園を中心とする貴族社会、これが平安時代となり今尚今上天皇の御所も平安京で栄えた京都にある。

 今上陛下とは現代の天皇陛下のことであり、今の皇居は都の奠都であり遷都ではない。

 つまり都は移されておらず、日本では今上陛下の奠都たる皇居が東京にあるので首都が東京になっているだけである。

 暴言かもしれないが我が国の場合、本来中央の行政府が首都移転や天皇の生前譲位など決めれる国家では実はない。

 私たちがメディアで見て聞くことは真実からは程遠いフェイクニュースと思った方が間違いない。

 先の戦争で歴史上初めての大きな敗戦に見舞われ、その後の戦勝国の占領政策装置としてのマスメディアを我々が見ているだけ。

 とにかく日本の戦前から現代の支配層も苦労しているわけだ。

 さて古代史に戻そう。

 藤原北家のように皇室に娘を送り出し天皇の外戚となる手法は、権勢を誇った蘇我稲目から蘇我入鹿まで何も変わらない。

 むしろ一族から数人の皇太子も誕生させた蘇我氏の場合が皇族に近い。

 勿論、藤原氏も頑張って皇室に嫁いだ娘が、後の聖武帝を誕生させたが。


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