第4節 祭祀氏族の勃興と平家の本家と分家の諍い
権力とはすなわち政(まつりごと)を司るということだが、政と言えば祭つまり祭祀の世界も例外ではない。
乙巳の変以前の蘇我氏側だった朝廷祭祀の忌部氏も、再び中臣の台頭で中央豪族としの立場や祭司特権から追われていく。
現代でも伊勢神宮の内宮を中心とする勢力圏は中臣氏つまり後の藤原一族である。
ただし、外宮だけは今でも阿波忌部系の度会一族が神官を継承しているが。
やがてあたかも都の中央忌部が地方にある阿波忌部よりも本流と見なされたりした。
類似した話に分家の平清盛が京都を拠点としたことから本家と思われ、困った本家関東の桓武平氏が頼朝を担いで源平合戦まで起す家督争いめいたことをし、後に北条と氏を変えて鎌倉幕府を牛耳った事は史実である。
もうこの源平合戦の逸話に異議をとなえる識者は現代では少ないのではないか。
現に私はそこに住んでいて、現地調査も終えている。
当時は武家の家督争いも、上皇の取り巻きたる藤原氏に権勢を左右する力があり、その力の源は京にあった。
学界の方々のご見解もあるがしかし、証拠がある以上言うしかない。
勝者が創作する歴史は権力の安泰と、その利権に巣窟する御用学者の呪文で成立つ。
同じように、祭祀族の忌部氏も奈良の中央忌部が本流と見なされた。
807年(大同2年)に古語拾遺を編纂し、祭司としての忌部氏の正当性を平城帝に直訴した斎部広成も忌部氏である。
伊勢神宮をめぐる中臣と忌部の確執は長く続くが、権力を笠に祭祀の要職を塗り替えようとすることに業を煮やしたのが忌部氏だった。
おそらく中臣氏が現代の権力を持ってしても関与できない平城天皇即位の大嘗祭の功をもって、広成が従五位下に昇格したタイミングで直訴したのだと思うが。
それにしても忌部の氏を斎部と改名し、はじめて神道の官人としての地位を保てたことから中臣氏の勢力下で苦渋を強いられたことは容易に想像できる。
たとえ平城帝に直訴が叶っても、あとは中臣の権力で風化されていく様は後の南北朝時代から南北合一以降もよく似通っている。