剣山本宮宝蔵石神社
(剣山本宮宝蔵石神社には安徳天皇も祀られており、
剣山とはかっては忌部氏の修験道の霊山であった)
第5節 天武天皇側の巻き返しと源平合戦の裏事情
顕著な記録では平家、源氏による武家政権の台頭である。
皇族内の抗争で敗北した、日本三大怨霊で有名な75代崇徳天皇の影響も見逃せない。
武士の棟梁である平家と源氏は対立して入るように見えるが実は同族である。
源平合戦も実は源氏と平氏の戦いというより、上述したように平家のお家騒動に源氏が担ぎ出されたようなもの。
足を運び綿密なリサーチをしたが、機会があれば別の機会に詳しく書きたい。
実は源平双方とももとは海人族で、大海人皇子側の末裔に近い存在といえる。
頼朝が鎌倉幕府を興す以前の石橋山の敗戦では、現在の千葉県は房総の千葉氏の棟梁千葉常胤(ちばのつねたね)を頼り、さらに源氏が
古来から守護する南房総の安房国に落ち延びた。
実はこの安房国とは現在の南房総で1700年前に阿波忌部氏が開拓した地域である。
安房神社所内に発見された忌部塚22柱を訪れば一目瞭然であり否定し難い史実だ。
また源平合戦の壇ノ浦で平家が落ち延びた場所は阿波のかずら橋で有名な祖谷。
瀬戸内海の海戦中に幼少で81代の安徳天皇は平家の外戚たる祖母に抱かれ、「海の中にも都はあります」と言われ入水して自決する。その時に持ち出した三種の神器の一つだった草薙剣も海の藻屑と化し消えていったということになっている。
ところが他説には安徳天皇は替え玉で剣を携えて、伊予つまり現在の愛媛県の山中を越えて祖谷にまず落ち延び、そこから忌部郷を経て剣山に匿われ、若くして崩御された記録があり、今でも剣山の山頂には安徳天皇を祀る剣山本宮宝蔵石神社が建立されている。
一方源氏側も源平合戦のおり、忌部郷にある忌部神社に源義経と弓矢の名手で有名な那須与一らが戦勝祈願で立ち寄り太刀や弓矢を奉納している。
故に源平双方ともどちらが敗れ落ち延びようと所縁の地に舞い込むと、必ず暗黙の了解で守護された。
尚、忌部郷については後述する。