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伊勢神宮と皇室1000年の空白

第9節 度会の斎宮ゆ の度会氏と忌部

 有名な伊勢神道とは度会神道のことであり、外宮がトヨウケをクニトコタチ(国常立尊、くにとこたちのみこと)あるいは同格神の、アメノミナカヌシ(天御中主神、あめのみなかぬしのかみ)であると比定し確立されたこと。

 個人的にはこの外宮の神様を祀る世襲制の神官一族と繋がる氏族の祖神が、アマテラスよりも古い高皇産霊に思えてくるのは私だけだろうか?

 それなら権力だけでは内宮をそれ以上に神格化するには無理がある。

 ただし、度会神道は、外宮のみを尊いとしているのではなく、二宮一光として、天下を治められるとしている信仰である。

 この神官の一族が壬申の乱の際に大海人皇子の伊勢の神風の象徴、つまり度会氏によって全ての海人族が大海人皇子に味方し勝利をもたらしたことになる。

 神武東征の時も熊野の山中に迷い、困惑した神武帝の夢に現れ導いた祖神たる高皇産霊と同様に勝者の援軍は常に秘匿されるか地味な記録として伏されていく。

  度会氏はのちに天武帝の庇護のもと伊勢神宮の外宮の代々の神官をつとめる。

 この神官一族は阿波忌部を祖とする天叢雲命(あまのむらくも)の一族である。

 つまり現在の徳島県吉野川市山川町にある忌部神社の神官家のひとつである。

 日本では式内社として唯一同市の山川町に忌部神社の摂社として天叢雲神社がある。

 前述した古語拾遺には忌部の遠祖は天の岩戸神話に登場する天太玉とあり、ならばその祖神は高皇産霊という事になる。

 これは記紀には一切言及されていない。

 当時の編纂者は秘匿したのではなく、もしかしたら知らなかったのではないだろうか。

 聖武帝をはじめ側近たちが最も関心を示したことである。


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