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2018年をどう生きる

 今年が最後の平成時代です。

思い返せば明治から150年も経過していますが、整理して見ましょう。

明治時代(1868年から1912年)の44年

大正時代(1912年から1926年)の14年

昭和時代(1926年から1989年)の63年

平成時代(1989年から2019年)の30年

 私は昭和に生まれたが、この明治から今日までの日本は建国以来諸外国との戦争を繰り返した時代でもあった。

 明治とは日本が19世紀の白人による植民地政策に危機感を感じ、窮余の作で西洋化し、東洋に大英帝国を模倣した近代国家を樹立し演じようとした時代でもあります。

 1853年に米国のペリーが浦賀に来航し、開港を迫ったが米国は南北戦争(1861年〜1865年)で国の内乱に奔走される。

 せいぜい下田に居を置いた米国外交官ハリスが、せっせと日本から金塊を香港に持込み正当な搾取をしたことくらいだ。

 その合間をついて清国との第1次、2次のアヘン戦争(1840年〜1842年、1856年〜1860年)で香港を植民地にした大英帝国が、日本の近代化をオペレーションすることになる。

 事実上明治維新国家を世界で最初に認知したのが大英帝国なのですが、脚本を書いたのは全て彼らですから当たり前です。

 当時の英国は世界最大でかつ孤高の大帝国であり、地球上の全陸地面積の4分の1は彼らの植民地だった。

 その彼らが極東の小国日本と歴史上最初の軍事同盟を結びます。(1902年日英同盟)

 彼らはアフリカをはじめアジアなどの有色人種を人間とは思っていなかった。

 にも関わらず日本人は特別だったのか?

 1904年に大国ロシアと戦争なんて、1894年に日清戦争を体験したばかりの日本には息つく暇もない。

 これは明らかにでき過ぎた話で、必ず裏があるはず。

 日本を交えた複数の国家間の思惑と国益を考察すべきではないだろうか。

 当時大英帝国はクリミア戦争(1853年〜1856年)でロシアと壮絶な戦いを繰り広げ、また植民地インドのセポイ兵の反乱(1857年〜1859年)でも地生臭い壮絶な戦闘を繰り返し、それを経て休む間も無く清国を第2次アヘン戦争で叩きのめしました。

 広東(現在の広州)はアヘンの密輸のための貿易港があり、そこから内陸に向けて清国全土に密輸アヘンを蔓延させ、20年間に及び清国人の財産を搾取し、逆らう民衆を強姦・虐殺し続けました。

1860年以降このとどめの一撃で事実上清国は滅亡に向かいます。

 第1次アヘン戦争で香港を割譲し、アヘン密輸の合法化で清国から大量の金銀と2回に渡る戦争で多額の賠償金と文化財を主奪します。

 物がなくなると今度は万人単位の清国人及び清国人から下層民と扱われた漢民族(現在の中華人民共和国の漢民族)をアメリカ大陸の西部で低賃金の鉄道人夫として酷使します。

 そして有色人種との世界最初の不平等条約である南京条約が締結されることになります。

 現在の中共は日本との南京事件よりも、実はこの南京条約が歴史的最大の汚点であり屈辱で大事件のはずです。

 中国の友人にいつもいうが、国策としてのプロパガンダに飽きたら「反日よりも反英だろう!」と。

 南シナ海を埋め立てるなら、ドーバー海峡も埋め立てたらいい。

 やがて清国から資源や金銀を収奪し終わると、英国は極東の最終地の日本に目をつけ虎視眈々と狙っていました。

 アングロサクソンは狩猟民族だけあって、学習能力が高く最後の日本には周到に計画し、手を汚さずに踏み込んできます。

 150年も経過した現在でも日本は今だに大河ドラマで「西郷隆盛」を放映するようだが、もういい加減にしたらいい。

 薩摩で大切な歴史は西郷、大久保より幕末1862年の横浜の生麦事件に端を発した薩英戦争(1863年)から見直すべきです。

 大英帝国と最初に戦ったのは幕府ではなく、薩摩藩だったということです。

 日本の明治維新を語るとき、司馬史観の影響で「坂の上の雲」ばっかりに目を向けていると真実を見失います。

 日本の明治を事実上演出し近代国家の脚本を書いた大英帝国の若き外交官や貿易・武器商人たちにスポットを当てるべきです。

 皆、それぞれ知的で20歳代のハンサムな貴公子ぞろいです。

 これらを丹念に凝視することで150年を経た今日の私たちの国家の様相が明確に分かってきます。

 2018年はこの視点からの歴史を考察して見ます。

 情緒的感覚を少し捨てるだけでも真実が見えてきます。

 良しも悪しきも全て混合して凝視するから感動できると私は思います。


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