今年の大河ドラマは「西郷(せご)どん」という幕末ものですが、もうそろそろ幕末の本当の立役者たちにスポットを当てて見てはいまがでしょうか。
西郷隆盛の半生以上に当時彼が所属していた薩摩藩のあるエピソードが、明治維新を推進したことから考察したい。
事件は私のご先祖様で5代前の高祖母マサさんが生まれた1862年(文久2年)の9月に勃発した。
(注釈、高祖母マサについては過去のブログのバックナンバーを参照してくだされば幸いです。)
http://www.laborcross.com/blog/zi_sun_yi_yan/Blog/entori/2015/2/17_tsuno_xie_zhenga_yuru_li_shino_feng_jing.html
薩摩藩主島津久光の大名行列が江戸からの帰りに生麦(現横浜市鶴見区生麦)を通過する際、騎馬の英国人数人を殺傷した事件で、世に言う「生麦事件」です。(石碑が京急本線生麦駅にあります)
この事件の事後処理に奔走する幕府を尻目に、一歩も引かない薩摩藩と英国がとうとう現在の鹿児島湾で砲撃戦による戦いを起こしますが これが1863年の薩英戦争で維新の5年前の話です。
旧式の装備の薩摩に対し、当時の最高峰の軍艦とアームストロング砲を持つ英国艦隊のワンサイドゲームと思いきや薩摩は善戦します。
射程距離の長い英艦の艦砲射撃で、鹿児島湾岸の1割は火の海になります。
一方薩摩も尊皇攘夷の時代背景もあり、常日頃から熟練された砲兵が湾の入江から懸命に英艦向けて砲撃したが英艦には届かなかった。
当初英艦の乗員は笑みを浮かべていたが、間も無く夏の季節風(台風の影響)の影響で艦船がじわじわと鹿児島湾内に舵を取られると様相は一変した。
薩摩の旧式で射程の短い砲弾が英艦に直撃し、英国はここで司令官を失います。
季節風は日本近海では神風とよく言われますが、13世紀の鎌倉時代で2度に渡る元の襲来の時も、当時も同じで必ず日本に味方します。
季節風がおさまるや、英艦は即座に横浜に撤退します。
鹿児島湾は火の海になりましたが薩摩の死者は6人程度、一方英艦は司令官をはじめ死者15名で予想外の互角に等しかった。
薩摩藩士たちは日頃の練度が功をそうし意気揚々と黒煙を上げて撤退する英艦を眺めたが、このとき16歳で初陣を砲手として務めたのが後の1904年日露開戦で指揮をとった連合艦隊司令長官の東郷平八郎だった。
この局地戦争に幕府は戦々恐々となったが、薩摩はさらに意欲的になり積極的に英国との和解に尽力した。
また英国から学ぼうとする姿勢に英国も薩摩に関心を示し出し、なんと双方が歩み寄り意気投合するきっかけとなった。
狩猟民族から見たら農耕民族もやるときはやると、少し視点を変えたかもしくは違う思惑を持ったかどちらかだろう。
幕府は一方的に蚊帳の外に置かれ、英国は薩摩とさらに近づき19人にも及ぶ留学生を受け入れた。
彼らはユニバーシティー・カレッジ・ロンドンで海軍測量術や医学、科学など、さまざまな分野の学問に勤しんだ。
またロンドンの地で長州五傑(伊藤博文、井上馨ら萩藩の五傑をいう)とも出会い、交流を持ったという記録がある。
薩摩留学生から後に関西経済界の重鎮と言われた五代友厚、サッポロビールを創設した村橋久成、初代文部大臣の森有礼、外務卿の寺島宗則など、明治の重鎮たる顔ぶれが揃っている。
西郷隆盛、大久保利通らは維新後に自害や暗殺でこの世をさるが、上述した薩摩の人々は維新以後も延々と影響力を持ち続けた。
彼らに大きな違いがあるとすれば、日本人が好きな情緒以外での大英帝国人との深い関わりではないだろうか?
歴史に情緒を絡めると新鮮さを損なった魚と同じ様相になる。
歴史は勝者によって記され、勝者は国益のみを標榜する。
所謂白人の歴史とは理性や情緒以上に、人間の醜い欲と性が国家を形成し文明の勃興を左右した。
さて関わりといえば当時の世界最高峰と言われた英国海軍の真髄を受けついたのが、ロンドンに留学し学んだ東郷平八郎であり、明治から薩摩派閥主導で組織されこれが大日本帝国海軍を経て現在の海上自衛隊にも息衝いている。
現在でもロンドン発鹿児島行きの格安チケットの直航便があるように、英ロンドンと鹿児島市は交流が深い。
2015年の薩摩・ロンドン交流150周年では日本一色の「ジャパン祭り」がロンドンで開催された。
また鹿児島市はオーストラリアのパース市と姉妹都市でもある。
そのオーストラリアは現在でも英国(女)王を元首に戴く君主国であることはいうまでもない。
幕末から明治とは当時の世界の覇者たる大英帝国と日本の関わりを知らずして語ることは空虚のようだ。
つづく