「大政奉還の提言は一人の英国書記官の匿名論文から」前編
明治維新史は日本人の視点からでは全く見えてこない。
一国の歴史を大河や歴史小説のみに頼る今の日本では無理もない話だが。
そもそも260年近く鎖国していた日本に黒船が来航し、海賊ペリーの砲艦外交宜しくで開国に至ったのだが、実際その開国をシュミレーションしたのは主に3人の英国人たちだった。
今日はその一人であるアーネスト・サトウについて書いてみたい。
アーネスト・サトウは1843年にロンドンでドイツ人の父とイギリス人の母との間にできたハーフで、生粋のイギリス人。
サトウは日本語とは直接無関係で、元々はSatowと表記しスラブ系の稀な苗字らしい。
彼は16歳でロンドンのユニバーシティ・カレッジの入学試験に合格した優秀な少年だった。
両親は彼に将来はケンブリッジ大学へと期待を膨らませたが、兄が図書館から借りてきたある書物(日本の旅行記)との出会いが彼の運命を変えてしまう事になる。
それはジェイムズ・ブルース(通称エルギン伯爵)というイギリス貴族の当時秘書であった、ローレンス・オリファントが書いた「エルギン卿遣日使節録」で、「日本人はイギリスに匹敵するほど男女問わず子供達までもが読み書きが出来る驚異的な識字率を有しており、皆が口頭で自国の歴史を語れる稀な文明を持っている」という内容である。
当時のイギリスは必ずしも日本の幕府や封建政治体制を高く評価していなかったが、民衆の民度や文化及び皇室に対しては極めて興味を持っていたことが分かる。
サトウが初めて日本に来たのは18歳の頃で、当時の外務省の通訳生に合格し日本駐在を命じられた1862年9月である。
私の5代前の高祖母の「お政」婆さんが生まれた年であり同じ9月(旧暦では8月)である。
実はその数日後に横浜で「生麦事件」が起こることになる。
このことを契機にサトウは書記官に昇格し、ラザーヘルド・オールコック、ハリー・パークス等の公使の秘書として活躍する事になる。
この3人が明治維新の最大の演出家といても過言ではない。
勿論、武器商人のトーマス・グラバーやフランス公使のレオン・ロッシュ等が周囲を固めていたが。
彼らの元に結集し組織され倒幕から維新の実働隊として動いたのが官軍・幕府問わず明治の志士たちであり、明治政府も彼等の指導とコントロールで近代化されていった。
これは恐らく1902年の日英同盟を経て1904年の日露戦争まで続く。
特に日露戦争はロシアの極東アジアへの南下政策により、香港を始めインドネシアに植民地を持つイギリスやフランスがそれを嫌い、1894年の日清戦争の勝者である日本を担ぎ上げ、ロシアに対峙させた遠交近攻的な政略であると考えた方が自然である。
それに当時の清国はすでに1840年から1860年の間にイギリスを始めとする西洋列強の植民地と化しており、国力はほとんど削がれてしまい風前の灯であった。
当時の清国は満州族が属民の漢民族(現在の中華人民共和国の主な民族)を服従させていたが、国力が弱ると漢民族出身の官僚が末期に活躍し、その一人だった李鴻章が、日清戦争にケチをつけた三国干渉の主導的立場だったロシアから多額の賄賂を受け取り、シベリア鉄道の清国領誘致にサインした。
事実上、全権大使が国を売った事になる。
こういうロシアが台頭して来たので、先のクリミア戦争(ロシア VS イギリス・フランス・オスマン・トルコ 1853年~1856年)のリターンマッチが極東アジアで起ころうとしていた。
しかしイギリスには世界に植民地を有し、極東アジアでロシアと再度一戦を交える国力はもう無かったのかも知れない。
サトウはその頃、中国の北京に滞在し日本の戦況を見守りながら、日本勝利後に本国に一旦帰国している。
つづく