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大政奉還の本当の立役者 (後編)

私は徳島出身で青春時代は四国の香川県で過ごした関係上、愛媛を始め特に高知の友人も多かった。

 高知の友人たちに坂本龍馬の事を言及しだすと、意識の高い連中は異口同音に海援隊の坂本龍馬よりも、陸援隊の中岡慎太郎の方を好む傾向があった。

 シンボルでも今日では桂浜の龍馬像以上に、足摺岬にあるジョン万次郎像に識者の視点が集中しているように思えるのだが。

 現に小沢一郎氏が設立した財団法人「ジョン万次郎の会」は有名だが、坂本龍馬は司馬遼太郎を愛読した団塊世代に人気があるに過ぎない。

 坂本龍馬と言えば薩長同盟や明治維新の基本政策の骨太となった「船中八策」は有名だ。

 また彼のような下級武士が商社を立ち上げ、大量の武器や物資を薩摩や長州に運ぶ光景は人々に勇気と希望を与えたのかも知れないが、それは小説上の坂の上の雲のような話で、殆どフィクションである事が今日では通説になって来ている。

 さらには彼の背後にパトロン的なスコットランド商人トーマス・グラバーの影が今日では鮮明になって来ている事もその起因だ。

 当然グラバーの背後には彼の雇い人であるイギリス東インド会社系列のアヘン密売業者や武器商人、その背後の英国政府もその役人たちも絡んでいる。

 勿論、私も坂本龍馬は大好きだし、彼の功績にケチをつけるつもりは毛頭無い。

 しかし、下級武士の彼が北辰一刀流の剣術ならいさ知らず、国政の「船中八策」を提言するには無理があるというもの。

 恐らくグラバー周辺の御仁たちからの受け売りであり、そのグラバーもまた、一人のイギリス人書記官からの受け売りの可能性がある。

 さて徳島県には小松島という海の練り物が美味しい港町がある。(最近ではソールフードとしてフィッシュカツなるものがある)

 1867年の徳島は阿波藩と呼ばれ、当時は領主の蜂須賀斉裕(はちすかなりひろ)阿波守という人物が治めていた。

 同年8月にサトウはこの阿波藩にイギリス公使の通訳として訪問している。

 小松島には今でもハリー・パークス公使の阿波上陸を記念した石碑が建立されている。

 石碑の文言には確かにパークスが2隻の軍艦で通訳官のサトウを伴いやって来たと書かれている。

 サトウを知らない人は通訳官に日本人がいたのかと勘違いしやすいが、これは紛れもなくアーネスト・サトウの事である。

 彼が日本に滞在中、最も影響を受けた人物にアメリカ人と二人の日本人がいる。

 アメリカ人は宣教師のサミュエル・ロビンス・ブラウン、日本人医師の高岡要、そして阿波藩士の沼田寅三郎である。

 実は最後の沼田寅三郎によってサトウは深遠な日本語を学ぶと同時に、彼の後押しで当時の週間英字新聞(ジャパンタイムズ)なる新聞に匿名で論文を掲載した経緯があった。

 これは1866年3月から5月に渡り「英国策論」と題名が付けられ、サトウの英語論文を沼田寅三郎が翻訳出版したものだった。

 内容的に要約すると「日本の開国後は幕藩体制を天皇中心国家に戻し、幕府解体後は天皇を元首とした旧大名の連合体で国家を運営すべし」と言うもので当時の倒幕の志士たちのほとんどが愛読したとされ、西郷もよくここから引用して志士たちに熱く語った。

 この論文は翌年1867年に坂本龍馬が「船中八策」で述べた冒頭の第1項を含め全く類似しており、大政奉還以降の新政府の処方箋と全く同じ趣旨の内容が記されていた事が今日では明らかになっている。

 つまり坂本龍馬の「船中八策」の提言は1年前から「英国策論」によって志士たちには熟知されており、既に受け入れる土壌ができていたと言える。

 むしろ後世に「船中八策」が日本の一下級武士だった坂本龍馬によってもたらされた事に、明治維新政府はしたかったのか、あるいはそうするようイギリスの公使や、サトウ等に仕向けられたようにしか思えてならないのは杞憂だろうか。

 さらに「英国策論」なるものの作者が日本の慶応年間の記録になかなか見つからず、後のサトウの伝記「アーネスト・サトウ伝」でしかも第三者の英国人によって記されたことや、現在徳島という一地方の県立図書館にひっそりと資料が眠っている事が、その真相をより不明瞭にさせている。

 受け売りで語りその気になった坂本龍馬が薩長を仲良くさせ、当時の日本の本当の血生臭い国益に反する理想に酔った故に、内紛を煽りもう少し儲けたかったグラバー(グラバーは日本における投資資金を回収できず倒産してしまう)や、維新後に明治政府の中枢に陣取ろうとした志士たちに消されることの遠因なった事は容易に推測できる。

 真実は常に見えないところにあるが、サトウに話を戻そう。

 サトウが如何に日本の文化・民衆、そして薩摩をこよなく愛したかは史実を垣間見れば明らかだ。

 サトウは日本人よりも古典や漢字に精通し、当時の薩摩弁から東京弁まで流暢に話した。

 家族への手紙も終生日本語で書き送っており、今でも横浜開港記念館に保存されている。

 英国にある日本文化に対する論文を始めサトウ文献は蔵書コレクションとして、今でも大英図書館やケンブリッジ大学図書館に多数保管されているし、またサトウの日本表記は佐藤ではなく薩道と書き、薩道愛之助と名乗っていた。

 サトウは通訳官や公使として日本に約25年の期間関わり、彼は戸籍上生涯独身を貫いたが、内縁の日本妻である武田兼と3人の子供がいた。

 長女は幼くして病死したが、長男はケンブリッジ大学に留学させ、病弱だったためアメリカののコロラド州で農業従事学者として生涯を送った。

 また次男をイギリスに留学生として呼び寄せると、後に高名な植物学者(武田久吉)に育てた。

 当時のイギリスは現代の日本人でも想像できないくらい人種差別の激しい国であり、立場上やむ得なかったのは容易に想像できる。

 妻の兼は一族で絶家した武田家再興の意味で生涯武田姓を名乗るが、サトウから終生経済的援助を始め家族全員が大切にされた。

 彼女は1932年に没し、サトウ(1929年没)より3年長く生きた。

 終生ともに暮らす事が出来なかった事が、二人にとって唯一残念だったかもしれないが。

 彼女が子供達と日本で暮らした邸宅は1976年まで存在しており、現在の法政大学が跡地を購入している。

 どうだろう?

 ある意味で日本人以上に日本を愛し、されどイギリス本国の国益に忠実に生きかつ、日本人の家族を大切にしたイギリス人サトウは表に出ない明治維新の立役者ではないだろうか。

 小利口な理屈や難しい話より、来日した20歳代のイケメン風の彼の写真をまず見ていても良いだろう。

 20歳の若さで彼の通訳官としての初年俸は700ポンドで、当時1ポンドは2.5両だから1750両となる。

 現在では当時の1両は約10万円だから彼は年俸約1億7千五百万の日本語上手な独身イケメンセレブとなる。

 またサトウ夫婦は双方極めて容姿端麗で美男美女だ。

 NHKも小手先の特番などやめて彼を特番か、本家大河ドラマの主人公にしても良いと思うのだが。


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